無無無庵2

(むさんあん)、思考が無く.躰が無く.心が無く

トキメキ団塊親父のセカンド・ステージ.退職爺のボケ封じ

ビールのコップに思う

その昔、秋田で暮らしていた高校生時代までは、ビールのコップはアレしか無かった。そう、ビールと言えばビンに入れて売られていた時代に付録されていたコップである。親父は当時、自宅で酒を飲む習慣が無かったから我が家は酒屋との付き合いは薄かった。それでも、たまの来客用とか正月用に酒を届けさせることがあり、酒屋もこの時とばかりに「ビールのコップ」を配っていった。親族でも似たような家庭環境だったらしく、ジュース...

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その昔、秋田で暮らしていた高校生時代までは、ビールのコップはアレしか無かった。
そう、ビールと言えばビンに入れて売られていた時代に付録されていたコップである。
イラスト
親父は当時、自宅で酒を飲む習慣が無かったから我が家は酒屋との付き合いは薄かった。それでも、たまの来客用とか正月用に酒を届けさせることがあり、酒屋もこの時とばかりに「ビールのコップ」を配っていった。親族でも似たような家庭環境だったらしく、ジュースであろうと構わずに、飲み物は「ビールのコップ」を使っていた。そんなことから、物心つくまでは、飲み物と言えば「ビールのコップ」を使う物だと思って育った。そんな俺が色気づいた頃に他所の家庭で出された飲み物の入れ物として「ビールのコップ」以外を見た時は何だこりゃである。

上京してからは、飲み屋とか、他家で出されるビールなんぞが「酒屋付録のビールのコップ」で出されることは少なかった。粗雑者の俺としては、あんな小洒落た小さなコップに注がれるビールはひと口で飲み干すので好みではなかった。
間もなく、屋上のビヤホールが流行り、使われるビヤジョッキは大好きになった。その頃から、屋上以外のビヤホールにも出入りする機会が増え、「ビールのコップ」にも酒屋付録の物以外に満ち溢れている事を知った次第である。

ビールのCMでは色々な形のコップが使われている。見た目としては北欧の物が洒落ているようだ。しかし、その道の通に言わせれば、見た目よりも「泡の出方」「冷めたく飲める時間」とかが違うのだとか、当然、味も番うのだろう。
退職が近づくかなり以前から、家飲みにしろ外飲みにしろ、ビールは殆ど飲まなくなった。最近では専ら缶入り第三のビールである。女将が趣味で集めたビール・ウイスキー・日本酒の器が食器棚の中で出番を失ってしまった。同じく出番を失った色々な食器の類たち。それらは。我々夫婦の亡き後にはどうするのだろうか。

アサヒスーパードライ|生ジョッキ缶・生ジョッキ缶大生|アサヒビール
生ジョッキ缶・生ジョッキ缶大生。ここではリニューアルした生ジョッキ缶と大ジョッキ缶大生をおいしく楽しく飲むためのコンテンツをご紹介します。
 

進まぬ断捨離メモ

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南太平洋に行ったカメラ

学生時代から写真撮影が好きだったが、入社してからは新しいカメラを買う事が好きだった。通勤ルートである東京は東急百貨店日本橋店(1999/01/31に閉店)で毎年の春に行われる新作カメラショーが楽しみだった。撮影の腕の悪さをカバーするかのようにカメラの台数は多かった。そんな事情を読まれたのか..結婚する同年の中仲間にバカチョンカメラを貸せとねだられた。聞けば、新婚旅行に持っていきたいとの事。断る理由も無く、貸...

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学生時代から写真撮影が好きだったが、入社してからは新しいカメラを買う事が好きだった。通勤ルートである東京は東急百貨店日本橋店(1999/01/31に閉店)で毎年の春に行われる新作カメラショーが楽しみだった。撮影の腕の悪さをカバーするかのようにカメラの台数は多かった。そんな事情を読まれたのか..結婚する同年の中仲間にバカチョンカメラを貸せとねだられた。聞けば、新婚旅行に持っていきたいとの事。

断る理由も無く、貸す事にしたが..行き先はニューカレドニアとのことだ。
森村桂氏の旅行記『天国にいちばん近い島』を元にして映画やテレビでその名が有名になった頃のことである。俺にしてみれば転がっているカメラから1台を貸すだけの事だから殊更の事ではないのだが、俺の知る仲間で海外の新婚旅行なんて者はいなかった頃である。増してや、かの有名なニューカレドニアに、持ち主が行けないのに、カメラだけが行くなんて事はとんでも無い..という内心。

スマホ全盛の今では「カメラを貸せ」なんて出来事はないだろう。でも、そんな出来事から端を発して、家族くるみで酒飲み付き合いが始まる時代は良かった。
ニューカレドニアの地を海を訪ねたカメラは、出来事以来は新婚所帯に所属が移ってしまった。

「国鉄バス」の思い出

COVID-19渦とやらを生き延びた連中は、ハロウィンだのとはしゃいでいる。次は秋の行楽ということで、アチコチの観光地に出かけるのだろうか。外出規制が長かったから旅行費用は存分に..となるのか、諸物価高騰の煽りで、こじんまりと御近所ウロウロなのか。いずれにしても、自宅に居れない日本人が多いのだろう。俺は、秋田県の北東部にある鹿角郡(現・鹿角市)で生まれた。最近ではクマで有名なようだが、クマは昔からいて里人...

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COVID-19渦とやらを生き延びた連中は、ハロウィンだのとはしゃいでいる。
次は秋の行楽ということで、アチコチの観光地に出かけるのだろうか。外出規制が長かったから旅行費用は存分に..となるのか、諸物価高騰の煽りで、こじんまりと御近所ウロウロなのか。いずれにしても、自宅に居れない日本人が多いのだろう。

俺は、秋田県の北東部にある鹿角郡(現・鹿角市)で生まれた。
最近ではクマで有名なようだが、クマは昔からいて里人と共存していた。そのバランスが崩れてきたのだろうか。
鹿角郡では秋北バスなる路線バスが走っていた。当時、路線バスに乗って出かけるような用事は殆ど無かった。1~2時間程度なら歩いて行った。だから、「秋北バスに乗った」という出来事は、子供心には大変な事件であった。
鹿角郡の中心地である花輪町には、赤色っぽい車体の秋北バス以外に、青色っぽい車体のバスが乗り入れていた。秋北バスに乗るだけでも事件であった俺には、青色っぽい車体のバスの事は知る由もなかった。後に知ったが国鉄バスであった。あまねく公平とすることが建前の日本では、国鉄のレールが曳けない場所には国鉄バスを走らせていたため、「奥入瀬→十和田湖」付近は国鉄バスでカバーしており、青森駅や弘前駅などから利用できた。聞けば、未だにJRバスとして路線が有るそうだ。

2017 路線バス JRバス 青森駅→奥入瀬→十和田湖 秋季バージョン 4K版

当地北陸でも新幹線が延伸され、観光には便利になると関係者は言う。
しかし、目的地に素早く到着する交通手段が便利なのだろうか。遠くの土地を訪ねるには、それなりの時間を掛けるのが楽しみというものなのではないだろうか。
バス運転手不足の先駆けだったのかもしれないが、数年前から長距離バスが減っているらしい。国鉄が元気だった昔は県境を跨いで運行されるバス路線が少なくなかった。往路に1日掛かりで向かい、目的地で宿泊して朝から復路を運転するドライバーも珍しくはなかった。そんなドライバーと同宿すると、想い出話を聞くのが楽しかったね😋

路線バスの長距離運行ランキングTOP5【ゆっくり解説】

国鉄が個人旅行客の増大を目的に1970年から始めたディスカバー・ジャパン (DISCOVER JAPAN) 。キャンペーンの副題は「美しい日本と私」。
観光立国推進基本法は、観光基本法を全部改正して2006年に制定された。 ちなみに、総理大臣は安倍晋三氏である。日本を観光立国とする発案者は、安倍氏の前任である小泉純一郎氏であろう。以来、日本は現在の体たらくに向かった。

仙台駅の変遷.考

「東北の玄関口・仙台駅の変遷を動画でお伝えします 横町利郎の岡目八目」を拝読し、仙台駅の変遷YouTubeを見つけた。秋田出身の俺にとって、高校時代までは「仙台」と言えば大都会であった。就職して上京するS43年頃までは、東京に出向く場合は東北本線よりも、新潟周りの羽越本線を利用した。したがって、仙台駅を通る事は少なかった。記憶の範疇で、初めて仙台に行ったのは高校1年生のバス旅行であったが、「なるほど街だな~」...

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東北の玄関口・仙台駅の変遷を動画でお伝えします 横町利郎の岡目八目」を拝読し、仙台駅の変遷YouTubeを見つけた。

秋田出身の俺にとって、高校時代までは「仙台」と言えば大都会であった。
就職して上京するS43年頃までは、東京に出向く場合は東北本線よりも、新潟周りの羽越本線を利用した。したがって、仙台駅を通る事は少なかった。
記憶の範疇で、初めて仙台に行ったのは高校1年生のバス旅行であったが、「なるほど街だな~」であった。その後の仙台の記憶は、所帯を持ってから女将共々の酒飲み旅行である。東北新幹線の工事が真っ盛りの頃であったが、仙台駅は国鉄時代の規格で建造された古めかしい建物で、駅前の大通りには路面電車が走っていた。
女将共々に大酒飲みの我が夫婦、仙台絵裏の市場近くの居酒屋を皮切りに、塩釜まで車を飛ばして朝まで飲み明かした。
そんな口明けの仙台駅だが、以降は俺の出張先となった。なんせ、自分で勝手に決めては出張と称して会社経費で出かけるのだから、気楽なものである。

東北の玄関口・仙台駅の変遷を動画でお伝えします
  仙台駅の変遷 温故知新  リンク動画解説YouTubeで興味深い動画を見つけた。東北の玄関口・仙台駅の変遷である。運営者はguishan1981さんである。動画の数は11本だが鉄道好きなかたにお勧めのサイトである。※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※仙台駅の開通は今から136年前に遡る。明治20年だが、開業当時の駅舎は絵しか残っていない。いかにこじんまりしたものか、おわかり頂ける気がする。停車場の位置については、現在...
 


昔あいした春歌たち

上京し、新入社員の頃はカラオケなんて~物は無かった。当年に高卒として東京支店に採用された仲間は9人だった。1964年東京オリンピックの後先は2-3桁の人数が新規採用されていたが、1968年(S43)には淋しい人数であった。集団就職こそ薄れたが、まだまだ地方からの上京者が多い時代であった。9人の同期入社にしても、秋田からは俺1人、岩手・埼玉・神奈川・忘れたから1人ずつ、東京から2人、鹿児島から2人であった。入社後は各々の...

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上京し、新入社員の頃はカラオケなんて~物は無かった。

当年に高卒として東京支店に採用された仲間は9人だった。
1964年東京オリンピックの後先は2-3桁の人数が新規採用されていたが、1968年(S43)には淋しい人数であった。集団就職こそ薄れたが、まだまだ地方からの上京者が多い時代であった。9人の同期入社にしても、秋田からは俺1人、岩手・埼玉・神奈川・忘れたから1人ずつ、東京から2人、鹿児島から2人であった。
入社後は各々の所属支店で顔見せしていたが、数週間してから新入社員の集合訓練ということで、入社式以来はじめて一堂に会することとなった。
3ヶ月近く続いた訓練だが、最初の内は猫を被っていたのだが、公式行事としての社員食堂での懇親会に始まり、その日以降は何かと理由を作っては日々の飲み会である。
訓練を受けているのか、酒の飲み方を教わっているのかは、未だにわからない。

酒飲みになると強いのが2人の鹿児島人と、秋田・岩手の東北人である。しかし、酒の量では東北人が勝つが、宴を盛り上げることでは鹿児島人には敵わなかった。
徒党を組んでは河原で喧嘩をし、その後は焼酎で酒盛りをしていたという鹿児島人である。カラオケが無かった当時は、専ら手拍子であり、鹿児島県人の歌と言えば軍歌と春歌であった。ちなみに、東北人は民謡があり、あんな俗めいた唄は歌わない..かな。

WikiPediaでは、春歌(しゅんか)は、性風俗に関連した、一般的に猥褻な内容の歌詞を含む音楽、俗謡のこと。猥歌(わいか)、艶歌(つやうた)、情歌(じょうか)ともいう...とのことだ。
性に関して現在よりおおらかなあの時代に、あの雰囲気の飲み会だから歌えた唄なのかも知れない。今歌ったらセクハラ騒動になるかもしれない。とは言うものの、「替え歌春歌」なる呼称で、通常の楽曲の歌詞を猥褻なものに変えたりもするのだそうだ。
試みに「春歌」でググってみたら、ズバリ『ハルウタ』というものがあった。いきものがかりの楽曲とのことだから、俺の考える「春歌」とは違うようだ。春を歌う唄は多い。

替え歌 - Wikipedia

野々市の民12年目

昨日から日本海側では経験した事の無い豪雨とやらで気象庁はじめマスコミが騒ぐ。「線状降水帯」の発生予報を報ずる仕掛けになって以来、やたらと発表している。とは言うものの、「線状降水帯」は民間天気予報が用い始めた用語ぽく、気象庁とNHKは使わなかったと覚える。しかし、線状降水帯という用語を初めて使用し定義したのは気象庁気象研究所が2007年に出版した「豪雨・豪雪の気象学」なる研究者向けの教科書とのことだ。それ...

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昨日から日本海側では経験した事の無い豪雨とやらで気象庁はじめマスコミが騒ぐ。
線状降水帯」の発生予報を報ずる仕掛けになって以来、やたらと発表している。
とは言うものの、「線状降水帯」は民間天気予報が用い始めた用語ぽく、気象庁とNHKは使わなかったと覚える。しかし、線状降水帯という用語を初めて使用し定義したのは気象庁気象研究所が2007年に出版した「豪雨・豪雪の気象学」なる研究者向けの教科書とのことだ。それにしては、なぜか気象庁とNHKは使わなかった..一度使いだした途端に見境なしに使っているかのごとし。もしかしら、線状降水帯の発生が増えてきたのか、気象観測技術の進歩なのかもしれないけれど。
🍶
12年前の今日は、野々市に住民登録した日である。当時は石川県石川郡野々市町也。
12年前の当地は、女将にしてみればもっと野趣溢れた所と思っていたらしい。しかし、金沢市のベットタウン的な場所柄、誠に中途半端な田舎町であった。すなわち、金沢市には開店できなかったマーケット等が乱立している景色なのだ。市内には海も山も無い。農業用水路が流れる。それも良かろうと思いながら暮らすうちに、ランキングに取り上げられる年が増えた。昔は、近所の自家用車と幼稚園の送迎バスを除けば1日に数えるほどの通行量であった我が家の前の道路は、今では中々の混み具合になってきた。
町を走る自転車すらも少なく、「この町の子供たちは徒歩ばかり..」とも思ったが、今では町にチャリが増えた。12年前は自転車に乗れない背丈の子供達が育ったのかも。

まあ、後何年ここで暮らせるのだろうか。地震災害を考えれば、横浜で暮らすよりは良かったのかも知れないが、鎌倉市内の大船駅まで徒歩5分の我が家で暮らし毎日飲んだくれて死ぬという生き方も悪くは無かったな~と思う、今日この頃である。
おめでとう🎊 pic.twitter.com/pPjnjNrwYl— 北国街道野々市の市 (@Nonoichi_noichi) June 29, 2022

3県「街の住みここちランク」 野々市市 V4:北陸中日新聞Web(23/06/29)
賃貸住宅大手の大東建託(東京)が二十八日発表した北陸三県の二〇二三年「街の住みここちランキング」は石川県野々市市が四年連続で一位となった。一~三位は石川県の自治体が占めた。
 

関連過去記事:居住地探し / 2年目の野々市市民 / 野々市の民3年目 / 野々市が市制執行4年目(2014) / 若年ボケだったの?(2015) / 野々市市市政執行6年目(2016) / 野々市市市政執行7年目(2017) / 田舎の政治と国の政治(2018) / 時代の長さ:考(2019) / 野々市市市政執行9年目(2020) / 野々市市市政執行10年目(2021) / 野々市の民11年目(2022) / 野々市市市政執行11年目(2022)

ナンバー銀行.学

小学2年生の春に、生まれ故郷の秋田県鹿角郡花輪町から秋田市に転居した。花輪町で我が家の在るエリアは20戸ほどの町営住宅が建ち並んでいたのだが、就学前の子供にとっては随分と人が多いと思っていた。それが保育園から小学校に通うようになり、花輪町に出るようになると仰天ものであった。それが、秋田市に引越しした途端に人の多さにはウンザリしたことを覚えている。中でも銀行なる建物は威風堂々としており、城下町の秋田市...

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小学2年生の春に、生まれ故郷の秋田県鹿角郡花輪町から秋田市に転居した。
花輪町で我が家の在るエリアは20戸ほどの町営住宅が建ち並んでいたのだが、就学前の子供にとっては随分と人が多いと思っていた。それが保育園から小学校に通うようになり、花輪町に出るようになると仰天ものであった。それが、秋田市に引越しした途端に人の多さにはウンザリしたことを覚えている。中でも銀行なる建物は威風堂々としており、城下町の秋田市内でもひときわ目を引いていたように覚える。
その時分には既に「秋田銀行」と称していたが、以前は「第四十八国立銀行」である。元は「国立銀行」であった建物は地方都市に合わない立派さであった。

中学生になる頃には「なぜ故に第四十八なのだろう」と疑問を覚え、「第四十八以前の物の有無」なんぞを知りたいと思いながら忘れていた。就職し出張した仙台市にて「七十七銀行」を見かけて以来、なんとなくモヤモヤしていた。
調べると「国立銀行」なる制度の名残らしい。
銀行は設立順に番号を名乗っており、これを「ナンバー銀行」と呼ぶこともあり、2021年現在、数字のみの純粋なナンバー銀行は十六銀行(岐阜県岐阜市)・七十七銀行(宮城県仙台市)・百五銀行(三重県津市)・百十四銀行(香川県高松市)の4行、統合前の行名を含むナンバー銀行は第四北越銀行(新潟県新潟市)と十八親和銀行(長崎県)の2行で、併せて6行が現存している
また、「戦時統合」と称される昭和時代前期に行われた大蔵省の政策で「一県一行主義」により、1つの府県(都道は対象外)に1つの地方銀行に制限すべく中小の地方銀行に対して強制的な統廃合を進めたことにより、「国立銀行」が合併させられた為、「ナンバー銀行」が欠番となったようだ。

ちなみに、当地石川県金沢市は県庁所在地でありながら「国立銀行」の名残は無い。古くは「第十二国立銀行」があったが、現在は「北陸銀行」として富山県富山市に本店が在る。また、「第七十五国立銀行」が在ったが「第四十五国立銀行(東京)」に合併され、1898年に営業満期解散したとのこと。
また、「みずほ銀行」が「第一国立銀行」であることは大いにガテンであるが、「横浜銀行」が「第二国立銀行」であったことは意外である。明治維新と外国向けの取引に必要だったのだろうか。

整理事始め.カメラ

初めてのカメラは、小学校の修学旅行で秋田市から函館に行った際に昭和新山の裾野にあったアイヌのコタン村の観光地で買った。東京の日本橋消防署勤めの頃に蛇腹カメラを買った親父の影響だったのだろう。コンタックス製の蛇腹カメラは、司令部付きであった親父の御供で志那事変やらインパール作戦やらに出向き、当時の写真だけでもアルバムが50冊程度は有った。臨場感溢れるなかなかの写真が多く、中には戦死した人も含まれると思...

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初めてのカメラは、小学校の修学旅行で秋田市から函館に行った際に昭和新山の裾野にあったアイヌのコタン村の観光地で買った。東京の日本橋消防署勤めの頃に蛇腹カメラを買った親父の影響だったのだろう。コンタックス製の蛇腹カメラは、司令部付きであった親父の御供で志那事変やらインパール作戦やらに出向き、当時の写真だけでもアルバムが50冊程度は有った。臨場感溢れるなかなかの写真が多く、中には戦死した人も含まれると思われ、行く行くは、どこぞに寄贈したいと思ったアルバムであった。
しかし、親父の死後、諸々の手続きに駆け回っていた或る日、母がすべてゴミとして市の清掃業者に出してしまった。後の祭りを叱っても致し方なく黙したが、親父の怒りなのか、アルバム整理が終わっ途端に骨折するというオマケがついた。
過去記事:カメラと鏡 / カラーフィルムの話 / カメラと鏡 / 写真の整理でも / パンツ(ズロース)見えた
 
そんな蛇腹カメラは、敗戦後に暮らした秋田県の鹿角郡で活躍した。当時に写真を撮ると言えば冠婚葬祭程度であり、個人でカメラを所有している人は少なかったようだ。というわけで、アチコチから御呼びが掛かったようだ。その蛇腹カメラの所有者の一人息子たる俺の写真は多かったらしい。
という事で、カメラが有環境で育った俺的には、小学校の修学旅行で多めの小遣いを持たせられた事で即座にカメラを買ったという次第である。
以降は、アルバイトをしてカメラを買う事を覚え、社会人になってからは買いまくり状態であった。しかし、そんなに保存する場所があるはずもなく、新しく買うと古い物を処分するという自転車操業的に使っていた。そうこうする内に、世の中はフィルム写真からデジカメ写真へと移り、携帯電話の付録カメラでもマアマアの写真が撮れるようになってしまった。となると、それまでの新車追っかけはしなくなり、殆どは携帯電話の付録カメラで間に合わせるようになった。

退職間近になった頃に始まった視力低下も手伝って、ファインダを覗いて写真を撮るのが辛くなり、数少なくなった保有カメラ(カメラ利用歴)の処分を考えながら実行しないままで今に至る(カメラの断捨離)。
(21/07/12)にはガラケをスマホに変えたが、未だにスマホでの写真撮影には馴染んでいない。馴染んでいないながらもの使用経験からすると、どうせ写真を撮るのであれば、やはり専門のカメラの方が良かろうと思い始めている最近である。
いずれにしても、身辺整理を始めるには第一候補であろうカメラの処分だ。
とは言うものの、捨てる事が嫌いな女将は「カメラの処分」はソコソコの金になると思っているようだ。しかし俺は、手間賃にもなるまいと見ている。果たして..
古いカメラ達

呑兵衛あなの熱海温泉

過日記事「AIに問うてみた」際に『呑兵衛あなを知っているか?』と問うた。回答の中で、2008/2/25に投稿した宿屋に関する記事が有る事に気が付いた。その宿屋、当時は「志ほみや旅館」の看板を上げており、明治時代の文豪尾崎紅葉が「金色夜叉」の執筆に利用していた部屋があることを売りにして『尾崎紅葉筆塚の宿』を謳い文句にしていた。その売りに惹かれて女将共々に退職間際の御苦労さん会として1泊した。しかし、文豪愛用の部...

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過日記事「AIに問うてみた」際に『呑兵衛あなを知っているか?』と問うた。
回答の中で、2008/2/25に投稿した宿屋に関する記事が有る事に気が付いた。

その宿屋、当時は「志ほみや旅館」の看板を上げており、明治時代の文豪尾崎紅葉が「金色夜叉」の執筆に利用していた部屋があることを売りにして『尾崎紅葉筆塚の宿』を謳い文句にしていた。その売りに惹かれて女将共々に退職間際の御苦労さん会として1泊した。しかし、文豪愛用の部屋があるほどの古びた建物は期待外れであった。とは言うものの、随分と失礼な事を書いたと思う..が、本音であるから勘弁願いたい。

熱海温泉志ほみや旅館 - 関東周辺立ち寄り温泉みしゅらん

呑兵衛あなさんの熱海温泉 湯宿一番地(志ほみや旅館 改め)

 

呑兵衛あなさんの熱海温泉 湯宿一番地(志ほみや旅館 改め)のクチコミ

部屋と廊下を仕切るドアの下には、5センチ以上の隙間がある。そのため、ドアとしての機能をはたしておらず、自室と廊下は、襖一枚で仕切られている状態であり、外部の人声が耳障りである。また、自室のトイレの水音がよく響く。アルミサッシの窓は開閉できないよう、ネジで固定。隙間風が吹き込む。無理に各部屋に個室風呂を付けた為トイレが狭い。熱海という傾斜地では、建物のメンテナンスが困難なのだろうが、安普請が目立つ。 また、宿泊してわかったが、日帰り入浴をしていた。ネットで探した時はわからないことであり、日帰り入浴制度があることを知っていたら、別な宿を取っていた。このようなリスクを逃れる為に、ネット情報で日帰り入浴の有無を掲載してほしい。せっかく休暇を取って行く宿の風呂が、日帰り入浴客で混雑しているのはゴメン蒙りたい。

尾崎紅葉筆塚の宿 志ほみや旅館からの返信

呑兵衛あな様 この度は志ほみや旅館を御利用頂きましてありがとうございました。ご不自由をおかけした点は誠に申し訳なく思います。日帰りの入浴に関しては街ぐるみで温泉を手軽にお楽しみいただく趣旨でほとんどの施設が実施しています。混雑をしました時はフロントの裁量で制限しますがご宿泊のお客様に迷惑をかけることのないよう調節させていただきます。客室風呂の件もお客さまの御指摘のとおりバス付きに改めました時の制限があったようです。すべてを一度に改善することは出来ませんが一つずつ解決している最中でございます。今現在はシャワートイレの改修をすすめています。少しずつですが着実に直しますので今後に御期待を頂ければと思います。 取締役 榛葉 公孝
これはじゃらんnet(WikiPedia:じゃらん)に、2008/2/25に投稿した。
その後、「志ほみや旅館」はリニューアルし、「熱海温泉 湯宿一番地」と看板を変えたらしい。

熱海駅から徒歩2分という好立地にあることから、商売繁盛の様子である。
日本海側から出かける機会があったら、再訪してみたい宿である。
熱海「志ほみや旅館」筆塚


熱海 湯宿一番地<公式サイト> 懐かしい熱海の温泉風情に癒される温泉旅館
熱海の温泉と旬の美食を楽しめ、貸切露天風呂が好評の旅情豊かな湯宿。熱海駅からも徒歩2分です。ご予約は公式サイトが【ベストレート保障】で一番お得です。
 
熱海温泉 湯宿一番地YouTubeより