無無無庵2

(むさんあん) - 思考が無く - 躰が無く - 心が無く

トキメキ団塊親父のセカンド・ステージ - 退職爺のボケ封じ

野々市の民11年目

11年前の今日は、野々市に住民登録した日である。当時は石川県石川郡野々市町也。その野々市市は、何やら「住みやすい」とか「住みたい」とかの町選びの上位になる。俺が当地を選ぶ頃にはそんなランキングは無かったと心得る。所詮は不動産屋のエコヒイキと客寄せの道具に過ぎないとは思うものの、やはり自分の住む町が選ばれるのは悪い気はしない。とは言うものの、この程度の町は日本全国のドコにでも有るだろうと思えば些か恥ず...

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11年前の今日は、野々市に住民登録した日である。当時は石川県石川郡野々市町也。
その野々市市は、何やら「住みやすい」とか「住みたい」とかの町選びの上位になる。
俺が当地を選ぶ頃にはそんなランキングは無かったと心得る。所詮は不動産屋のエコヒイキと客寄せの道具に過ぎないとは思うものの、やはり自分の住む町が選ばれるのは悪い気はしない。とは言うものの、この程度の町は日本全国のドコにでも有るだろうと思えば些か恥ずかしくもある。
11年前の当地は、女将にしてみればもっと野趣溢れた所と思っていたらしい。しかし、金沢市のベットタウン的な場所柄、誠に中途半端な田舎町であった。すなわち、金沢市には開店できなかったマーケット等が乱立している景色なのだ。市内には海も山も無い。農業用水路が流れる。それも良かろうと思いながら暮らすうちに、ランキングに取り上げられる年が増えた。昔は、近所の自家用車と幼稚園の送迎バスを除けば1日に数えるほどの通行量であった我が家の前の道路は、今ではなかなかの混み具合になってきた。
まあ、後何年ここで暮らせるのだろうか。地震災害を考えれば、横浜で暮らすよりは良かったのかも知れないが、鎌倉市内の大船駅まで徒歩5分の我が家で暮らし毎日飲んだくれて死ぬという生き方も悪くは無かったな~と思う、今日この頃である。

関連過去記事:居住地探し / 2年目の野々市市民 / 野々市の民3年目 / 野々市が市制執行4年目(2014) / 若年ボケだったの?(2015) / 野々市市市政執行6年目(2016) / 野々市市市政執行7年目(2017) / 田舎の政治と国の政治(2018) / 時代の長さ:考(2019) / 野々市市市政執行9年目(2020) / 野々市市市政執行10年目(2021)

70歳超えのブロガ達

その昔、仕事人時代にホームページ作りをしていた。元々は会社のサイト作りを始めるに先立った腕慣らしであった。素晴らしい記事でも書くつもりで始めたのだが、諸先輩の溢れる知識には立ち行かない事を知り、結局は写真置き場的なサイトであった。それでも、サイト作りを通じて知り合ったネット仲間は少なくない。退職時期と時を重ねて発生した視力低下に伴い、サイト作りという面倒な事をする気がしなくなった。しかし、完璧に身...

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その昔、仕事人時代にホームページ作りをしていた。
元々は会社のサイト作りを始めるに先立った腕慣らしであった。素晴らしい記事でも書くつもりで始めたのだが、諸先輩の溢れる知識には立ち行かない事を知り、結局は写真置き場的なサイトであった。それでも、サイト作りを通じて知り合ったネット仲間は少なくない。退職時期と時を重ねて発生した視力低下に伴い、サイト作りという面倒な事をする気がしなくなった。しかし、完璧に身を引いたのでは老後の暇つぶしがなくなるだろうと思い、以降はブログの世界の人である。2013-11-24の過去記事(ホームページ開設に掛かる壱考察)にて「ホームページを開設してから14年が経ち、ブログに乗り換え」と書いている。ということは、1999年に始めたということで今年で23年目也。

ブログを始めた頃にブログランキングなる物に参加した。
当時は「60歳代」であり、そのクラスに参加した。周囲には「団塊世代」の人達が大勢。話し相手に不自由はしなかった。当時も「70歳代」「80歳代」のクラスは有ったが、参加者は少なかった記憶である。しかし、あれから概ね10年が経ち、「団塊世代」の人達は揃って「70歳代」となった。中にはブログ書きを止めたらしき人も少なく無く、いつの間にか執筆が中断している事に気が付く。知り合った頃には既に「70歳代」であった先輩ブロガは既に「80歳代」になっている。

COVID-19渦とか言われる今の世に、いつの間にかブログの執筆が行われなくなると、有らぬことに気を回してしまう。長老なんて呼び方が消え、年功序列や、舅・姑の知恵に頼らずとも、ネット検索すれば「教えて貰える」味気ない世の中になったしまった。しかし、だからこそ世に蔓延ってでも生きるも悪くはない。邪魔物扱いも存在価値也。(「ブログの書き方」考)

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♪桜井の別れ

「鎌倉殿の13人」なるNHKの大河ドラマが放送されている。大泉洋が嫌いな俺としてはハナから視る気が無い。尤も大河ドラマを視ないが。そもそもタイトルからして意味が判らない。一般的に「鎌倉殿」とは鎌倉幕府の棟梁を言う。鎌倉時代の武士は鎌倉幕府を「鎌倉殿」と呼んでいたとのこと。また、「平家物語」で言う「鎌倉殿」とは源頼朝を指している。源頼朝の死後、「十三人の合議制」による集団指導体制が出来たが、これは歴史学...

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鎌倉殿の13人」なるNHKの大河ドラマが放送されている。
大泉洋が嫌いな俺としてはハナから視る気が無い。尤も大河ドラマを視ないが。
そもそもタイトルからして意味が判らない。一般的に「鎌倉殿」とは鎌倉幕府の棟梁を言う。鎌倉時代の武士は鎌倉幕府を「鎌倉殿」と呼んでいたとのこと。また、「平家物語」で言う「鎌倉殿」とは源頼朝を指している。源頼朝の死後、「十三人の合議制」による集団指導体制が出来たが、これは歴史学上の用語である。要するに、「鎌倉殿の13人」とは単語の寄せ集めである。全第61作で、先日は壇ノ浦とのことだが、新田義貞率が鎌倉市内になだれ込む下りにまではストーリが進むまい。
小池栄子山本耕史鈴木京香宮沢りえ西田敏行と楽しみな役者陣なのだが、大泉洋が演じる源頼朝が死んだら視たいような気もする。
とは言うものの、NHKの大河ドラマは時代劇の標準語で大声で我鳴れば演技らしいからつまらん。なぜが土佐弁と薩摩弁だけは真っ当風に喋るのが不思議だが、やはり大声也。

ドラマ「鎌倉殿の13人」は兎も角として...
子供の頃、昭和20-30年代に母が口ずさんだ歌「桜井の別れ」を思い出す事がある。
若かりし頃も含めて、母の思い出に楠木正成が重なることも無く、「父子が訣別する」ような出来事も知らない。歌と言えば民謡しか無かった秋田の片田舎で40歳前の女が唄う印象とはつながらない。太平洋戦争以前には東京府東京市(後に東京都)荏原区に所帯が在ったそうだから、当時の記憶なのだろうか。
桜井の別れ(さくらいのわかれ)は、西国街道桜井駅(桜井の駅)で、楠木正成正行父子が訣別する逸話である。桜井駅で別れた後、正成は湊川の戦いに赴いて戦死し、今生の別れとなった。桜井の駅の別れ桜井の訣別ともいう。
「桜井の別れ」は『太平記』の名場面として修身の教科書に載っていた逸話であり、戦前教育を受けた者には大変有名な話であったそうだが、その想い出なのだろうか。
いずれにしても、母が唄う歌は「桜井の別れ」しか俺は知らない。消え入るようなか細い声であったように思い出すが、そうだったのだろうか。

高音質『大楠公の歌』完全版15番まで-河内長野市出身ソプラノ歌手西尾薫が歌う-#25



伊豆松崎町に行った事

「松崎町からの富士山 - 写游暇人」を拝読し、上京して間もなくの旅を想い出した。松崎町(まつざきちょう)は伊豆半島南西部の海岸沿いの静岡県賀茂郡にある町。町内には史跡も多く、なまこ壁造りの建物を見受ける。松崎温泉等、温泉も多い。上京した1968年の夏休みに、初めてのボーナス+有り金+親父の足し金を合わせて買ったサイクリング車で遠距離ツーリングの目的地に選んだのが松崎町であった。未だサイクリングという用語が...

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松崎町からの富士山 - 写游暇人」を拝読し、上京して間もなくの旅を想い出した。
松崎町(まつざきちょう)は伊豆半島南西部の海岸沿いの静岡県賀茂郡にある町。
町内には史跡も多く、なまこ壁造りの建物を見受ける。松崎温泉等、温泉も多い。

上京した1968年の夏休みに、初めてのボーナス+有り金+親父の足し金を合わせて買ったサイクリング車で遠距離ツーリングの目的地に選んだのが松崎町であった。未だサイクリングという用語がアカデミックでない時代に、東北各地を実用自転車で走ることに楽しみを感じていた俺は、当時10万円ほどした高級なツーリング車を即金で求めた。
買ったばかりの頃は近くの三浦半島を走る事で満足していたが、毎週のように出かける内には飽きてきたのだろう。三浦半島の道路は未舗装であった時代である。
偶には違った景色を走ろうと思い立ち、目的地に選んだのが伊豆の下田であった。

しかし、熱海を過ぎると道路の殆どは未舗装であったと記憶する。それでも、体力だけしか無い若者はひたすら自転車をこぎ、横浜は金沢区の自宅から伊豆急下田駅まで半日ほどで着いた。それから速やかに宿探しをすれば良かったのだが、未だ陽が高い事に太っ腹になり、更に走ろうと思い立った。目的地は松崎温泉で入浴である。
しかし、下田-松崎町が難路であった。路線バスすら数少ない時代で、山超えの未舗装道路は充分に響いた感じであった。それでも何とか夕方には辿り着いたが、民宿案内所的なものが無い時代のことで、宿探しが大変であった。
翌日は、西伊豆周りの帰路を考えていたのだが、宿の亭主に聞けば自転車で走破できる道路ではないとのこと...松崎港からは沼津港清水港に定期航路があり、漁船で海路を利用している時代であった。

2012年の冬.想

「2012年の冬」と言えば、何月を思い浮かべるのだろうか。2011年12月と言う人も多いのだろう。しかしこれは、2012年1-2月頃の話題である。その時期は、数ヶ月で向かえる定年退職を前にして埼玉県の大宮アパートで単身暮らしをしているころだ。1ヶ月に1度程度は石川県野々市市の我が家に帰っていたが、退職までの塒として7ヶ月ばかり2DK6帖でトイレ・風呂付きのアパートに住んでいた。海の街である横浜市民としては陸封された埼玉県...

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「2012年の冬」と言えば、何月を思い浮かべるのだろうか。
2011年12月と言う人も多いのだろう。しかしこれは、2012年1-2月頃の話題である。

その時期は、数ヶ月で向かえる定年退職を前にして埼玉県の大宮アパートで単身暮らしをしているころだ。1ヶ月に1度程度は石川県野々市市の我が家に帰っていたが、退職までの塒として7ヶ月ばかり2DK6帖でトイレ・風呂付きのアパートに住んでいた。海の街である横浜市民としては陸封された埼玉県を小馬鹿にしていたが、どうして..住めば都であった。

その年の冬は「2012年豪雪」と呼ばれる豪雪であった。
未だ北陸新幹線が開通していない当時、大宮駅から金沢駅へは、上越新幹線の越後湯沢駅で乗り継ぐ北越急行ほくほく線経由で北陸方面への特急「はくたか」号に乗り替えるという鉄路であった。越後湯沢駅とは隣駅になる石打駅あたりまでが雪のために不通になった時期である。当地で留守を守ってくれた女将だが、当時は若かったとは言うものの、雪掻きが難儀であったろうと改めて感謝する。
huyu01.gif
今期の冬の気温を比べても、当地野々市と埼玉県おおみやでは差異が少ない事に驚いている。最低気温で比べれば、むしろ大宮市の方が低い日が多い。尤も、今期は大宮に限らず東京も寒い。豪雪地帯の当地だが、雪雲のフトンで気温は下がらない日が多い。

2012年の冬。温度計が無かったが、大宮アパートも寒かった。
朝方にタバコしながらトイレの窓から覗く景色に、チラリホラリの雪が一面に積もっているのを何度見ただろう。雪国とは違い、日中になると溶けてしまう雪であったがよく降った。
聖夜の住まい
 (Windows 10用テーマより)

日本には四季があるそうだ。当然ながら雪も降るだろう。そんな冬が直に過ぎる。
明日は東京圏で名残雪が降るとか降らないとか..あんな程度は雪じゃない

過去記事:野々市で10年 / 変る景色-金沢に向かう /

雨音の思い出

今日の北陸地方では大雪に注意とやらであったが、我が家の庭は2-3cm程。しかし、今日は1日中寒いようだから、昼にも降るのかも知れない。「シンシン」と降るという雪景色の日は静かだ。雨の降る日は静かではないが、雨音に周りの音が溶け込んでいるようだ。その雨音を聞くともなく聞いていたら、子供の頃に、雨音を「ダヂタチ」と表する人がいた事を想い出した。その人が誰だったのか..想い出したいのだが..出てこない。雨音と...

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今日の北陸地方では大雪に注意とやらであったが、我が家の庭は2-3cm程。
しかし、今日は1日中寒いようだから、昼にも降るのかも知れない。

「シンシン」と降るという雪景色の日は静かだ。
雨の降る日は静かではないが、雨音に周りの音が溶け込んでいるようだ。
その雨音を聞くともなく聞いていたら、子供の頃に、雨音を「ダヂタチ」と表する人がいた事を想い出した。その人が誰だったのか..想い出したいのだが..出てこない。

雨音と言っても人それぞれで、色々な言い表し方があるのであろう。
標準語では『ポツボツ』と言うのだろうか。
吉幾三の「酔歌」(歌詞)では『ぽつりぽつり』とと降りだす。

karaTube
WikiPedia「雨音」では多くの楽曲が有るようだ。

「雨音」に限らず、「風音」や「水音」など、聞く人次第で表音に差異があるのは面白い。もちろん地域差もあるのだろうし、教えてくれた大人の知識にもよるのだろうか。
俺に雨音を「ダヂタチ」と教えてくれた人は誰だったのだろうか..母だっろうか

野々市で10年

当地野々市市を終の棲家と決め、不動産所得と建築の契約をして丸10年が過ぎた。関ケ原以北のアチコチを「捜し歩き」と称しては土さ回りしたが、何故か見ず知らずの北陸で死ぬことになってしまった。契約したのは2011年。後で考えれば、少しでもモタツイテいたら3.11が起こり建築資材等は不足していたであろう。決めた住処は北陸で、今では市政執行されて「野々市市」となったが、当時は「石川県石川郡野々市町」であった。ちっぽけ...

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当地野々市市を終の棲家と決め、不動産所得と建築の契約をして丸10年が過ぎた。
関ケ原以北のアチコチを「捜し歩き」と称しては土さ回りしたが、何故か見ず知らずの北陸で死ぬことになってしまった。契約したのは2011年。後で考えれば、少しでもモタツイテいたら3.11が起こり建築資材等は不足していたであろう。

決めた住処は北陸で、今では市政執行されて「野々市市」となったが、当時は「石川県石川郡野々市町」であった。ちっぽけなエリアであり、地図を眺めても「そりゃ何処にある」という状態であった。今では「全国の住みたい街」とやらに選ばれるとかで、知る人ぞ知る名前になったらしい。

2011年に「捜し歩き」に来た頃は北陸新幹線は未開通であった。初めて当地を訪れたのは2010年の暮れ12月であった。鎌倉市を立って上越新幹線の越後湯沢駅で乗り継ぐ北越急行ほくほく線経由で北陸方面への特急「はくたか」号に乗り替えるホームでタバコを吸い溜めする。ほくほく線は長岡直江津までの殆どがトンネルという印象であった。トンネル区間は少ないのかも知れないが、どんよりとした雪景色を走る車内が照明れていた為なのかもしれない。新潟地震の際には道路側から見た駅舎の景色を電車側から見るのは何とも異次元であった。
低い天井の駅のホームまでが暗い照明の金沢駅に着き、予約していたホテルは駅の目の前だったが、室内は何故かスポット照明が多く、往路のトンネルの延長線のように暗い街という印象であった。その印象は、駅地下の食堂街までも続き、暗い店舗での夕食。
【フルHD】北越急行ほくほく線 特急「はくたか」4号 金沢行 越後湯沢~直江津 車窓(冬)



さて、閑話休題
明けて翌日は、金沢駅から2駅目の「野々市駅」に出向いた。予想はしていものの、国鉄時代の古い駅舎を出ると駅前とは言うものの人っ気は無い。駅の窓口に人の気配は無く、改札口に置かれたダンボール箱に切符を放り込めば下車できる。駅前に広場はあるものの、田舎によく見る何でも店舗もない。駅中にもキオスク的な売店は無いのだから、駅とは言うものの、鉄道が停車するだけの機能しか無い。タクシー乗り場は有るのの、タクシー自体がいない。これでは、この地方で電車の利用者が減ることは当然と言えよう。少ない電車の停車本数とな~んにも無い駅に、何の価値が有るものか。
それでも、待ち合わせした不動産屋が出迎えてくれていた。挨拶もそこそこに不動産屋の車にて目的地に向かったが、交通信号こそ有るものの、道路を走る車両の少なさに驚くやら、嬉しいやら。(2013-10.野々市駅南口)

あれから10年が経った。市政執行の法的決まりである5万人でスタートした野々市市は2021年12月1日の推計人口では57,734人に増えた。以前は「土地区画整理地」との名称で住所表記の無かったエリアには住所地番が付き真新しい家屋が増えた。新しい道路が出現し、大通りでは小規模ながら渋滞も発生している。以前は天下御免でいつでも横断できた道路は、用心しなければ渡れなくなった。何よりも驚くのは近所のマイカーの数であろう。10年前には助手席の若者がマイカーを持つ年齢に成ったのだろうか。転居間もない頃は1日に数台しか通らなかった我が家の前の最近はなかなか煩い。

後になって知った事だが、北陸は駅を中心とした街づくりではない。JRの野々市駅では通勤時間は15分間隔程度に電車が来るが、それ以外は1時間に2本程度しか停車しない。通過する特急の方が多く、普通列車は遠慮しているのだ。金沢-福井間に新幹線が開通したら在来線にも変化はあるのだろうか。いずれにしても、マイカーを持たない俺が金沢市内に向かう場合は、徒歩5分の国道を15分間隔に走る路線バスが利便が良い。

過去記事:居住地探し / 東日本大震災から5年 / 大宮暮らしの思い出 / 私の過ごした 0311
20220115120401
(22/01/15 AM、野々市市散歩)
この田んぼでは左義長が行われていた。例年、町内の子供会で各家庭を巡ってはその年飾った門松や注連飾り・書き初めで書いた物を集めて焼いていた。しかし、今年は子供会が来なかった。思えば昨年も来なかったようだ。
はじめて左義長の子供会が来た10年前には、「左義長とは?」であったが、「あぁ、どんど焼き、か~」程度の認識であった。思い起こせば、秋田県鹿角郡に住んでいた頃にウッスラと記憶するだけで、その後は神社等で御焚上していたので左義長とは知らなかった。

今日の最高気温は9℃になるとの予報であった。最低気温3℃とのことだが、起床後に気温が上がった気はしない。故郷秋田に続く日本海の鈍色の空は今日も暗い。
それでも積もった雪は今日は溶けてしまうのだろう。大寒は1月20日也。

過去記事:老後の暮らしは平屋で / 石川の県民性に思う / うんざりするよな石川県民 / 北陸の珍奇な県域 / 「地域」呼称の明確化  / 石川県に へ~ / 北陸の最大都市である金沢市(?)  / 出身地に見る帰巣本能 / 変る景色-金沢に向かう / 石川県民の地元愛 /
関連過去記事:野々市の人になって1年が経つ東京圏の年寄は脱出を

生れた故郷で死ねる.考

集団就職ではないが、高校卒業と同時に就職・上京した俺だ。しかし東北から南下したい症候群だった親父が横浜に自宅を建てていたので、俺としては転居したというほうが正確かもしれない。明治生まれの親父は秋田の尋常小学校を卒業後上京し、日本橋馬喰町で丁稚的な仕事をしながら勉強し、旧・東京消防庁に就職し日本橋消防署の消防運転手をしていた。そのため、志那とビルマに2度の徴兵が掛かったが、司令部着きの運転士であった...

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集団就職ではないが、高校卒業と同時に就職・上京した俺だ。
しかし東北から南下したい症候群だった親父が横浜に自宅を建てていたので、俺としては転居したというほうが正確かもしれない。

明治生まれの親父は秋田の尋常小学校を卒業後上京し、日本橋馬喰町で丁稚的な仕事をしながら勉強し、旧・東京消防庁に就職し日本橋消防署の消防運転手をしていた。そのため、志那とビルマに2度の徴兵が掛かったが、司令部着きの運転士であった。徴兵以前から当時の荏原区に住んでいたため、終戦後には故郷の雪国秋田から脱出する願望があり、雪の降らない土地に住みたいがために、定年退職後に横浜を選んだということらしい。

俺が生まれ小学校2年迄を過ごした秋田県鹿角郡花輪町から秋田市に転居する頃の記憶は皆無に近いが、今の俺が終の棲家として未知の石川県を躊躇なく選んでしまった根底には、親父の症候群を受け継いでいるのかもしれない。とは言うものの後悔している。
思い起こせば秋田市在住の中学生時代に、「建設省勤めの父親と共に全国を転居する娘」とかの浮き草と仲が良かったようだった。

1964年(S39)東京オリンピック向けには3桁の地方出身者を採用していた当社東京だったが、俺が入社した1968年(S43)には1桁の採用しかなかった。内8割が地方出身者だが、殆どの者は関東圏に自宅を構え、子息は生まれつきの関東生まれとして振る舞っているらしい。改めて考えれば、退職後に故郷に戻っても両親や兄弟が健在ならばいざ知らず、見知らぬ人達の中に帰ることになる者もいるのだろう。それならば、上京以来人生の半分を過ごしてきた関東圏に済み、関東生まれの子供達に看取られて墓参りしてもらうのも良い末路であろう。あるいは、退職後は子供達と共に故郷に帰り、昔からの友人たちと酒でも酌み交わしながら、或る日ポックリという死に方もある。

それよりも羨ましいのは、生まれた故郷で一生を過ごし子を作り、その子供達に看取られて墓参りしてもらうことなのだろう。

COVID-19での突然死という身近な死に方を聞くと、見知らぬ土地で死ぬことになる自分が可哀そうにも思える。生れた故郷で死ねる人が羨ましい。

10月寒露、まだ暑し

10/08今日は寒露である。寒露と言えば「露が冷気によって凍りそうになるころ」を言うそうだ。しかし、20℃の就寝時は小布団程度で間に合うし、28℃の昼は半袖姿である。昨日はCOVID-19渦で中止されたが、本来は長崎くんちの祭日であった。前日(まえび、10月7日)、中日(なかび、8日)、後日(あとび、9日)1977年(S52)に長崎に出張した際も暑かった。10月早々に長崎駅に到着して現地事務所に向かった際には、あまりの暑さで背広は...

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10/08今日は寒露である。
寒露と言えば「露が冷気によって凍りそうになるころ」を言うそうだ。
しかし、20℃の就寝時は小布団程度で間に合うし、28℃の昼は半袖姿である。

昨日はCOVID-19渦で中止されたが、本来は長崎くんちの祭日であった。
前日(まえび、10月7日)、中日(なかび、8日)、後日(あとび、9日)
1977年(S52)に長崎に出張した際も暑かった。
10月早々に長崎駅に到着して現地事務所に向かった際には、あまりの暑さで背広は汗でグチャグチャだった。1ヶ月間の出張期間は毎日がカンカン照りで半袖生活であった。日々の洗濯が大変だったため、急遽女将を呼び寄せてしまった。10月15日に2人で乗り合わせた路面電車から長崎バスジャック事件を見た事が想い出である。

菊が咲き始め、蟋蟀などが鳴き始めるころなそうな。暦の上で、季節は秋なり。


過去記事:40年ぶりの暑さ / 長崎出張記
🀄
昨夜は東京都足立区や埼玉県川口市などでで震度5強の地震があったので、瓦版屋が騒がしい。東京23区内で震度5強を観測したのは、2011年3月11日の東北地方太平洋沖地震以来とのこと。
「首都直下」より深く小さい プレート境界付近の地震か―気象庁:時事ドットコム

あてがい大工.考

「たかが一人、されど一人: 国民総背番号制」を拝読した。以下に、一部を引用する。システム設計者は当面与えられた命題を解決するべく、それぞれ使用するデバイス(機材)を特定して設計を行う。現在国が運用するシステムがどれほどあるかは知らぬが、これが地方自治体とどのように繋がるかは分からない。ご尤もである。俺が思うには「日本人は大規模なシステム作りには向かない」性格である。目の前に見えている事であれば解決す...

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「たかが一人、されど一人: 国民総背番号制」を拝読した。以下に、一部を引用する。
システム設計者は当面与えられた命題を解決するべく、それぞれ使用するデバイス(機材)を特定して設計を行う。現在国が運用するシステムがどれほどあるかは知らぬが、これが地方自治体とどのように繋がるかは分からない。
ご尤もである。

俺が思うには「日本人は大規模なシステム作りには向かない」性格である。
目の前に見えている事であれば解決する事は得意なのであろう。しかし、沖縄と北海道の事情を汲み取った全国的な制度にする事は不得意である。東京府をモデルとして、東京市(東京15区~)⇒東京都となり、東京都市部や練馬区などを加え、神奈川・埼玉・千葉などをベットタウン化した東京圏での特殊性を以って全国に展開しようとする政治は、奈良・平安時代に「都の塀の外は全て田舎」として、京の都から戦闘兵を繰り出して「都に恭順」させ大和化した時代の考え方と同様で、自分の考えを押し付けるだけのやり方なのだ。簡単に言えば中央集権であり、地方分権はできない国家なのだろう。
とは言うものの、欧米型の民主主義を以って世界に君臨するに似ているのかも。
同様に、昔の組織の誰かが構築したシステムの内容を読み取って、それを組み込んだシステムを構築する事は極めて不得意である。要するに、極めて近視眼的な国家である。

俺が知るシステム屋たちに言わせれば「すべてぶっ壊して新しく作ったほうが、早く、確実」とのことだ。要するに、自分勝手に絵を描けるが、各自勝手にではその絵をひとつに纏められないらしい。そんな性格の国民が、以前はドーバー海峡を潜るトンネルをイギリス側とフランス側から掘り進めて寸分たがわずドッキングすることができたものだと驚嘆する。瀬戸大橋といい、同様なグループ作業は少なくないが、この自我の強い国民の1人1人を束ねることができる強烈なリーダーシップが必要なのだろう。
😌
手先の器用だった親父が散歩ついでに町内会で建築中の大工から、落ちている材木を貰い受けてきては何やら作っていたっけ。勿論、設計図なんぞが有るはずも無く、何やら材木を組み合わせては小屋に成ったり...という思い付きの産物であった。
しかし、或る日お袋が洗濯機を買って、それを小屋に入れようとしても、電気・水道は無く、洗濯機を入れる為には狭い入口を壊さなければならなかった。
そんな自分の作業を、明治生まれの親父は自虐を込めて「あてがい大工」と呼んだ。
今の日本を明治の男は何と呼ぶのだろうか