無無無庵2

(むさんあん) - 思考が無く - 躰が無く - 心が無く

トキメキ団塊親父のセカンド・ステージ - 退職爺のボケ封じ

通勤時間の過ごし方

通勤時間の過ごし方

秋田の高校を卒業して以来住み続けた横浜からの通勤時間と言う物は1時間超えで掛かる事を当然と思っていた。勤務先は東京都内を転々としていたが、都内の窓口となる品川駅までが1時間を要するのだから、更に先の時間を加えれば約2時間の通勤時間である。鎌倉に転居してからもこの通勤時間は同等であった。或る意味では横浜に住むということにステータス感もあり、長い通勤時間はステータス感を満足する為には必要だったのかも知れ...

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秋田の高校を卒業して以来住み続けた横浜からの通勤時間と言う物は1時間超えで掛かる事を当然と思っていた。勤務先は東京都内を転々としていたが、都内の窓口となる品川駅までが1時間を要するのだから、更に先の時間を加えれば約2時間の通勤時間である。鎌倉に転居してからもこの通勤時間は同等であった。
或る意味では横浜に住むということにステータス感もあり、長い通勤時間はステータス感を満足する為には必要だったのかも知れない。また当時、周囲の上司や仲間の通勤時間を聞いたも概ね2時間が多く、遠距離通勤している感じは抱かなかった。

退職間際になり半年ほどの単身赴任生活に選んだアパートは、終の棲家とした石川県野々市市に通い易い場所として埼玉県のJR大宮駅傍にした。大宮なんてのは田舎だとばかり思っていたが、その近さに驚いた。通勤時間の長短を考えれば、あの差で何かができたかも知れないと考えるこの頃である。

熱中症続出の日々

熱中症続出の日々

まだ7月だというのに、熱中症が真っ盛りである。(気象庁|平成30年の梅雨入りと梅雨明け(速報値))マスコミは、大阪の地震や西日本の豪雨被害を話題にしていたが、最近では被害の話題よりも熱中症の話題に傾倒してきたように見受けられる。上京した頃は毎晩のように飲んだくれていた。山手線の海側で飲む事が多かったが、給料日前の金欠期間は山側の安い店で飲む事になっていた。金欠とはいって見栄を張ってせいぜい新宿で飲むよ...

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まだ7月だというのに、熱中症が真っ盛りである。(気象庁|平成30年の梅雨入りと梅雨明け(速報値))
マスコミは、大阪の地震や西日本の豪雨被害を話題にしていたが、最近では被害の話題よりも熱中症の話題に傾倒してきたように見受けられる。

上京した頃は毎晩のように飲んだくれていた。山手線の海側で飲む事が多かったが、給料日前の金欠期間は山側の安い店で飲む事になっていた。金欠とはいって見栄を張ってせいぜい新宿で飲むようにしていた。
更に金欠が進めば池袋や渋谷でも飲んだが、余程の貧乏状態以外はそこまで落ちぶれたくは無かった。
新宿で飲んで遅くなり横浜の自宅に帰れない時は、淀橋浄水場(現在の副都心)を歩いて抜け、初台の同窓生のアパートに泊まる事にしていた。夜中に転がり込まれる同窓生にしてみればとんでもない迷惑であっただろう。
当時のアパートの殆どは狭かったが、同窓生のアパートは特に狭く、京間作りの二畳間であった。畳敷き以外に布団を仕舞う為の棚が有ったが、居住スペースは二畳だけである。なんだかんだと言っても、一応は繁華街の新宿に近い場所なのだから、そんなモンだっただろう。今ならばあのアパートを借りる者はいないだろう。
同窓生一人だけでも狭いアパートに酔っ払いの俺が乱入し、1枚だけの布団に雑魚寝するのだから、朝は汗まみれ状態で目覚める。自炊設備の無いアパートには水道すら無く、前夜に汲み貯めしたヤカンの水で水分補給することになる。当然ながらコップは無く、ヤカンの注ぎ口から直に飲むことになる。思えば、随分と間接キッスしたものだ。
途中で同窓生も学習し、コカコーラのホームサイズに水を貯めることを覚えていたっけ。

山手線の北側で飲んだくれると西巣鴨の同窓生を訪ねた。SW西巣鴨駅を地上に出て隣のマンションに住んでいたが、勤め先のサラ金に貸与された物件だった為に、当時ですらクーラー付きの部屋であった。しかし商売柄、夜中に酔っぱらった俺が訪ねると日本刀を抜いて迎えられるのが困りものであった。

山手線の南側ではJR目黒から雅叙園脇を下って環六に出た所に有るアパートが定宿であった。他の所は窓が無かったが、ここだけは窓が開き当時のアパートという作りであった。しかし、環六に面していたため騒音で開けっ放しにはできなかった。(過去記事:目黒の居酒屋ぶらり / 目黒の映画館 / Y.K.氏 のこと / 漫画「寺島町奇譚」購入)

いずれも部屋も暑かったが、部活の最中にぶっ倒れてもヤカンの水を掛けらるだけの頃としては、当然であった。
当時は「日射病」という言葉はあったが、「熱中症」は聞かなかった、室内で高温障害が起こるほど暑くは無かったのか。それとも、有っても医者も含めて知らなかったのだろうか。当時は風通しの良い家屋が多かったしね~

最近では熱中症(熱失神⇒熱痙攣⇒熱疲労⇒熱射病)とやらで毎日のように救急車が走っている。中には死に至る人もいる。団塊世代と呼ばれる人達の中には「根性が足りない」とか「エアコンなんて、贅沢品」と言う者もいるようだ。そして、そのような者に限ってエアコンも使わず、熱中症対策にも耳を貸さずも実行もしていないようだ。
しかし、根性論で病気にならないということがあるハズが無いだろう。確かに気力で直る病気も有るようだが、神信心と同様にそれは最後の手段であろう。エアコンが無ければ、取り合えず経口補水液程度は飲むようにしよう。
「経口補水液」コンビニに置いていない理由 実は家で簡単に作れる? - withnews
とは言うものの、食塩とブドウ糖を混合した経口補水液を糖尿病患者が愛飲しても良いものか(?)疑問也。

異常気象と言われる最近は昔とは気候が変わってきているように思っていたが、天気データにも表れているそうだ。
「昔はエアコンがなくても大丈夫だったのは今より気温が低かったから」は本当か 日本気象協会に聞いた - ねとらぼ
一昔前の根性論では暮らせない気候になっているということだ。

今の日本でエアコンは必需品であるが、各家庭で冷却運転すると排気熱で周囲環境の温度が上がるという悪循環に陥るらしい。さりとて、東京ドームのように一定エリアを囲うのも現実的ではない。野々市市や近隣の住みたい街の小中学校は100%のエアコン設置率との事だが、古い行政ではゼロも有る。
我が家のように暇な爺婆はテレビのワイドショーからでも熱中症の知識を得られるが、学校の先生などはワイドショーを見ている時間は無い。彼らを教宣する方法を考えたい。体育を中止する判断力を含めて訓練したい。
未来はどうするのだろうか 取り敢えずは、2年後に迫った東京オリンピックか。自宅でエアコン観戦が一番だな。
関連過去記事:東京オリンピックは炎暑 / 2018梅雨
命に関わる「熱射病」…熱中症・日射病・熱射病の違い - All About NEWS

三十路の俺は

三十路の俺は

最近の結婚年齢は遅いらしい。 大都会では30歳を過ぎた女性でも慌てる事は無いようだ。と言うよりも、結婚するという気持ちが無いとも聞く。しかし、皆無ということではなく、理想の相手に当たらないということらしい。理想を云々と言えるほど選べる立場なのかは知らないが、結婚するならば早いうちが良かろう。孫のような年代の子供を可愛がる親というのが、美しい景色には見えない。上昇する初産の平均年齢。43歳限界説の根拠と...

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最近の結婚年齢は遅いらしい。 大都会では30歳を過ぎた女性でも慌てる事は無いようだ。
と言うよりも、結婚するという気持ちが無いとも聞く。しかし、皆無ということではなく、理想の相手に当たらないということらしい。理想を云々と言えるほど選べる立場なのかは知らないが、結婚するならば早いうちが良かろう。
孫のような年代の子供を可愛がる親というのが、美しい景色には見えない。

俺の親父は二度徴兵された。そして太平洋戦争後に俺が生まれたのは、母親が39歳。父親が43歳の時だ。
概ねは、現代の都会の夫婦の初めての出産年齢であろう。
今にして考えれば、39歳の女性ならば「アラサー」とか言いながら街をぶらつくのだろうか。
以降、高卒で就職した年に親は既に60歳を過ぎていた。俺が働き盛りとなった30歳代には古稀を過ぎていた。
今の俺よりも高齢に達していたということを改めて感じるものの、当時の俺としては「親は親」とい感覚であった。
「仕事が忙しい」という大義名分を振り立てて、親の事を考えることも無く、未来を語り合うことも無かった。

因果応報とも言う。そんなものなのだろう...と思う昨今である。

SpaceXのファルコンヘビーがどのように飛んだのかを公式CGアニメで見てみよう | ギズモード・ジャパン

SpaceX YouTubeより

親父の思い出

親父の思い出

今になれば「敬愛する」とか、「尊敬する」とか、白々しく言えるのだが、子供の頃は「とにかく怖く」、青年になってからは「嫌な存在」でしかなかった親父であった。男は、たいがいは親父という存在は煙ったいのだろう。2度の徴兵を受け支那事変とインパール作戦に行き、顎には機関銃の弾が貫通したという傷跡があった。明治の男らしく、家庭で会話をした記憶がない。当時の堀炬燵の中で足が触るだけでびくびくするほどに怖かった...

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今になれば「敬愛する」とか、「尊敬する」とか、白々しく言えるのだが、子供の頃は「とにかく怖く」、青年になってからは「嫌な存在」でしかなかった親父であった。
男は、たいがいは親父という存在は煙ったいのだろう。

2度の徴兵を受け支那事変インパール作戦に行き、顎には機関銃の弾が貫通したという傷跡があった。

明治の男らしく、家庭で会話をした記憶がない。当時の堀炬燵の中で足が触るだけでびくびくするほどに怖かった。
それでも、新しいメカが好きだったらしく、トランジスターラジオを買っていた。(もっとも、死ぬまで1台だけ)

50歳で定年退職し、秋田から横浜に転居した。 120坪ほどの自宅は、バブル時代には1億円以上の値がついた。

色々と先見の明があったのだろう。

百歳まで生きると言いながら、93歳で旅立った。 あなたには追い付けないな~

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明日は雨水。雪が溶け始める頃という。 当地も久しぶりに晴れとの天気予報。

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避けてきた大腸検査

避けてきた大腸検査

仕事人時代には、経費は会社の持ちで毎年人間ドックに行っていた。会社も豪気なもので、脳のMRIを含めてすべての検査項目を受診することができた。退職して4年間は、持病の定期診察のため2ヶ月に1度は病院に出向くのだが、血液検査以外にはこれといった検査も無かった。 そろそろ人間ドッグでも行ってみようかと思う由縁である。当時55歳の仕事仲間が人間ドッグにて大腸カメラを受け、肛門近くに大腸ポリープが発見され 小さな...

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仕事人時代には、経費は会社の持ちで毎年人間ドックに行っていた。
会社も豪気なもので、脳のMRIを含めてすべての検査項目を受診することができた。
退職して4年間は、持病の定期診察のため2ヶ月に1度は病院に出向くのだが、血液検査以外にはこれといった検査も無かった。 そろそろ人間ドッグでも行ってみようかと思う由縁である。


当時55歳の仕事仲間が人間ドッグにて大腸カメラを受け、肛門近くに大腸ポリープが発見され 小さなポリープはカメラに付いた切除用器具で除去されたが、大きなポリープは除去できないため後日改めて病院で手術により除去することを奨められた。

人間ドッグを終えた後、早速ポリープ除去の手術を受けるべく東京の著名な大病院に入院した彼が予定の退院日になっても出てこないので、見舞いに行った。

面会室にピンシャンと出向いて来た彼が言うには「肛門そばのポリープを除去した後、切除部位の縫合箇所から体液が漏れており縫合が適切に行われていない事が判ったので、明日もう一度縫合を行う」とのことだ。
縫合を行うだけの簡単な手術だから、1週間程度で退院できる予定とのことで、至って明るく、タバコをねだる元気さであった。 結局、翌日の簡単な手術にも失敗し病院で死亡した。
人間ドッグで大腸カメラを行わず、ポリープを抱えている事を知らずに暮らしていれば、もっと長生きできたであろう。

大病院側は過失を認めなかったが、葬儀代金は病院が拠出し、遺族には多額な見舞金が支払われたとのことだ。
闇から闇の白い巨塔というべきだろうか。
10年程前の4千万円以上を高額と取るかは人それぞれだろう。 遺族としては泣き寝入りするよりはマシということだろうが、年金生活もできなかった当人としては残念であっただろう。
そんな経験から、大腸検査はどうも気が進まないでいる。 また、目の手術等は、できるだけご遠慮したい。

市役所からは、毎年のように健康診断の案内が郵送されてくる。 転居以来1度も行かずにいたところ、過日督促が来た。 市役所の行う人間ドッグ程度の内容は、持病持ちとしては通院の都度行われている。
しかし、大腸検査だけはしていないから、カメラではない内容を受けてみようかとも思わなくもない。
最近では血液検査でガンの兆候が診察できる人間ドッグがある。

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高血圧になった日

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毎日、大酒を飲みまくっていた頃だった。二十代・三十代の頃に比べれば、だいぶ酒量が落ちたものの、1晩に日本酒1升は飲んでいた。ウィスキーならば1本半、焼酎でも1升程度は飲んでいたのだろう。夜は飲んだくれて、昼は酔いを覚ます生活の繰り返しで、それでも賃金を頂戴できたのだから、気楽な稼業だった。出張などに出かければ、仕事に行ったのか(?) 酒を飲みに行ったのか、我ながら疑問を覚えていた。それでも仕事をしてい...

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毎日、大酒を飲みまくっていた頃だった。
二十代・三十代の頃に比べれば、だいぶ酒量が落ちたものの、1晩に日本酒1升は飲んでいた。
ウィスキーならば1本半、焼酎でも1升程度は飲んでいたのだろう。

夜は飲んだくれて、昼は酔いを覚ます生活の繰り返しで、それでも賃金を頂戴できたのだから、気楽な稼業だった。
出張などに出かければ、仕事に行ったのか(?) 酒を飲みに行ったのか、我ながら疑問を覚えていた。
それでも仕事をしているフリさえしていれば良く、日々酒臭い顔をしては家を出ていた。

JR品川の本拠事務所からJR田端の事務所に出かけていた頃があった。
コンピュータのマシン室が在り、全国の中枢ポイントとして各地のコンピュータを統括する為の重要なポイントだった。
中央マシン室と呼べば如何にも恰好良いが、所詮はコンピュータの為の部屋である。
やたらコンピュータが並ぶ室内の片隅に、万一の故障に備えて人間が滞在していた。
平常時には殊更何もすることが無い為、暇つぶしにCAD等で遊んでいればOKという仕事である。
本来はコンピュータの為に作られた部屋であり、室内温度は20℃程度に設定されていた。
二日酔いの俺にとっては、誠に快適な環境と言うべきだろう。
というわけで、酔い覚ましに出向き、常駐者を本拠に戻して俺が代行する事があった。

あれは厄年だったと記憶する。
かなりの二日酔いとなった或る日、いつものようにマシン室に出かけ、涼しさを満喫していた。
その日は躰の火照りが抜けず、特に肩凝りがひどいように思っていた。 その感じは時間とともにひどくなった。
それまでのように昼飯でも食べれば直るだろうと思い、昼食に出かけたのだが、フラフラする感じであった。
それまで経験した事の無い体感に不安を覚え、マシン室とフロア違いの一般事務室の知人に頼んで病院に連れて行ってもらうことにした。 その間にも肩凝り感が増す一方であり、頭が霞む感じでボンヤリとしていた。

地域の総合病院で内科に飛び込み、下された診断は高血圧であった。 上が260程度はあった記憶である。
しばらく降圧の為に点滴を受け、2時間ほど休まされた後、帰宅して安静にするようにとのことであった。
1週間ほど会社を休み、安静に努めた結果、血圧が140程に下がることができた。


あの経験は躰が覚えているようで、未だに "幻の病" なるものの要因になっているようだ。
退職し自宅にいるようになってからは、涼しさ大好きの女将に付き合って夏場はエアコンのお世話になっているのだが、ふと寒さを感じるとあの時の出来事を思い出すことがある。
ノートパソコンに向かう俯き加減の姿勢はよろしくないと考える由縁でもある。

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Tokunoshimatown さんのチャンネル YouTubeより

食パンの皮

食パンの皮

横浜市に転居した頃、我が家は貧しかったようだ。秋田市の家には、当時高校生のおいらとお袋が住み、親父は単身東京住まいをして横浜に家を新築していた。東京都板橋区内のアパートに住み仕事をしながら、暇を見つけては新築工事の立会いをしていたと聞く。現代のように建築専門会社が多数無い当時、新築は東京都大田区蒲田の大工の棟梁と契約して工事を行ったようだ。 基礎工事等には親父も手出しをしていたことが、後になって調...

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横浜市に転居した頃、我が家は貧しかったようだ。


秋田市の家には、当時高校生のおいらとお袋が住み、親父は単身東京住まいをして横浜に家を新築していた。


東京都板橋区内のアパートに住み仕事をしながら、暇を見つけては新築工事の立会いをしていたと聞く。

現代のように建築専門会社が多数無い当時、新築は東京都大田区蒲田の大工の棟梁と契約して工事を行ったようだ。
 基礎工事等には親父も手出しをしていたことが、後になって調べた書類から伺い知れる。

そうして完成した住居に移り住んだ後、親父とお袋の朝食は「食パンの皮」だった。

皮と呼ぶのかは判らないが、焼きあがった食パンの長い方向にできる固い部分である。



今では 「能見台」 という洒落た駅名になっている京浜急行の駅は、当時は 「谷津坂」 という駅名だった。

横浜高校への最寄駅でもあるが、当時は住宅用宅地整備に西武が力を入れており、「湿地」 を連想させる名称を変えてしまったとのことだ。
 今では駅に近いエリアがメインとなっているが、当時は横浜高校に近いエリアがメインであった。  そこにパン屋が有ったのだ。


このパン屋は、食パンの皮を無料で配布しており、これを知った親父が毎朝の食事としたということだ。


秋田の田舎者とばかり思っていた親父達が、皮とはいえ食パンとインスタント・コーヒーで食事する姿にヘェ~と思ったものである。
(おいらは、朝食無しで出社していた)


考えてみれば、太平洋戦争に出兵し、ビルマ(インパール) でイギリス軍戦時捕虜として暮らした経験を持つ親父がパン食をすることは不思議なことでは無い。



そんな朝食生活が1年程度は続いただろうか。

或る日、くだんのパン屋が無料から50円にしたことで、以降はロール・パンの朝食に変わっていたっけ..

朝食って

朝食って

これまでの人生の大部分は、朝食をとることをしなかった。学生時代迄は、食べていた。 北国の秋田市では食べずに出かけると寒かった為だろうか。しかし、上京し仕事に就いてからは朝食は抜きだった。通勤時間が長かった為なのか、二日酔いが多かった為なのか、わからない。両親は食パンの皮と言えども、必ず食べていたのだが...夏の夜明けが早い時期に気が向くと、京浜急行の1番電車に乗り、東京駅の地下に在ったサウナに立ち...

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これまでの人生の大部分は、朝食をとることをしなかった。
学生時代迄は、食べていた。 北国の秋田市では食べずに出かけると寒かった為だろうか。

しかし、上京し仕事に就いてからは朝食は抜きだった。
通勤時間が長かった為なのか、二日酔いが多かった為なのか、わからない。
両親は食パンの皮と言えども、必ず食べていたのだが...
夏の夜明けが早い時期に気が向くと、京浜急行の1番電車に乗り、東京駅の地下に在ったサウナに立ち寄り朝風呂してから出勤することがあった。金沢文庫駅から乗車する電車は早い時刻から運行され、早い時間に東京駅に着けた。
そんな時には、インスタントラーメン又は喫茶店のモーニングを食べる事もあったが、殆ど朝食は抜きであった。

肝臓を壊してからは、減量する為にも朝食は抜きであった。
肝炎が治り酒を飲み出してからも朝食をとりたいという気持ちがなかった。 糖尿病を宣告されても同様だった。
しかし、10年程前からまじめに糖尿病の治療をはじめ、健康管理士から 「糖尿病の薬を飲むと低血糖になりやすく、それを防止する為に必ず朝食をとる」 ことを指導され、以降は致し方なく 食パンを1枚食べている。
食パン1枚程度で、どの程度に血糖値に影響があるのか(?) 知らないが、低血糖発作症状の経験は無い。
WikiPedia:低血糖より抜粋引用
例としては、大量の冷や汗、動悸、振戦、譫妄などである。アドレナリン、ノルアドレナリンによる諸症状として、精神症状は、にらんでいるような顔つきになり、暴力をふるったり、奇声をあげたりすることがある。身体症状は心拍数や拍出量の増加、血糖と脂質の上昇、代謝の亢進、手足の冷え、呼吸が浅い、眼の奥が痛む、動悸、頻脈、狭心痛、手足の筋肉の痙攣、失神発作、月経前緊張症、手指の震えなどがある。低血糖症の症状のなかでも、細胞のエネルギー不足で起こる症状は、異常な疲労感、日中でも眠気をもよおす、集中力欠如、めまい、ふらつき、健忘症、光過敏症、甘いもの欲求などがあげられる。
本当に効果があるのか(?) と健康管理士の指導に疑いを持ちながらも、僅かな朝食を続けている臆病者だ。

凧作りの想い出

凧作りの想い出

子供の頃、親父が凧を作ってくれたことがある。当時住んでいた秋田県鹿角郡には、真竹・孟宗竹のように凧作りに向いた竹が生えず、笹竹で作った。おいらとしては、奴凧が欲しかったのだが、作ってくれた物は日本風の四角な凧であった。笹竹では、曲げ加工が大変だったのだろう。 できあがった物は、見かけは立派で、揚がりそうだった。凧に張った紙には障子紙以外には和紙が無かったのだが、幅の限られた障子紙を張り終えてから文...

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子供の頃、
親父がを作ってくれたことがある。
当時住んでいた秋田県鹿角郡には、真竹孟宗竹のように凧作りに向いた竹が生えず、笹竹で作った。
おいらとしては、奴凧が欲しかったのだが、作ってくれた物は日本風の四角な凧であった。
笹竹では、曲げ加工が大変だったのだろう。 できあがった物は、見かけは立派で、揚がりそうだった。

凧に張った紙には障子紙以外には和紙が無かったのだが、幅の限られた障子紙を張り終えてから文字を書くしか方法が無かった為、骨の部分だけが目立つ文字となってしまった。
親父は達筆であり、事務所開きの看板や、表彰状等の書記を任じられていたのだが、凧の表書きは苦手だったということか。
できあがった凧は近所の空き地でを揚げたのだが、(後日その地を訪ねてみた) よくぞあの狭い場所で(?) と思う。

凧の足(尻尾) には新聞紙を刻んで利用したが、当時の粗雑な新聞紙では すぐにちぎれてしまった。
それでも、「調子を見てやる」 という親父の言いつけで、おいらは凧を抑えている役目であった。
なかなか揚がらない凧と、だんだんと短くなる凧の足にジタバタとしなから、「おらにも揚げさせてけろ~」 とグズったのだが、最後の最後になるまで凧の糸を持たせてもらえなかった。 ちなみに、親父お手製の立派な糸巻だった。
ちぎれた足は重しの役目をせず、頭を下にしてズルズルと引きずっているうちに、哀れな凧になってしまった。

なにやら忙しい親父に何かを作ってもらった記憶は、その凧が最後だった。 今日は、こどもの日なそうだ。

==・==・==・==・==・==・==・==・==・==・==・==・==・==・==・==・==・==・==・==・==・==・==・==・==・==・==・==・==

WikiPedia:こどもの日より引用
祝日法2条によれば、「こどもの人格を重んじ、こどもの幸福をはかるとともに、母に感謝する」ことが趣旨。
ということだが、もうじき また母の日だけ来るのは、不公平だね
WikiPedia:母の日より引用  ※5月第2日曜日
日頃の母の苦労を労り、母への感謝を表す日。
WikiPedia:父の日より引用  ※6月第3日曜日
アメリカの女性が、男手1つで自分を育て亡くなった父を讃えて、教会の牧師にお願いして父の誕生月である6月に礼拝をしてもらったことがきっかけと言われている。
WikiPedia:敬老の日より引用  ※9月第3月曜日
祝日法第2条によれば、「多年にわたり社会につくしてきた老人を敬愛し、長寿を祝う」ことが趣旨。
WikiPedia:成人の日より引用 ※1月第2月曜日
祝日第2条によれば、「おとなになったことを自覚し、みずから生き抜こうとする青年を祝いはげます」ことが趣旨。


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鹿児島に行く

鹿児島に行く

1973年(昭和48年)、同期入社した NM の結婚式の司会として鹿児島に行った。1968年(昭和43年)に東京支店に同期入社した者は、NM、YY、SN、AY、SI、S?、MY、HY、私、の9名と、それまでのオリンピック景気採用時の1/8程度であった。 9名の内、4名が結婚式に参列することとなった。 当初は4名でカーフェリーで行く計画だったが、台風来襲の天気予報があり、司会のおいらが到着しなくてはマズイという。 結局、おいらは夜行寝台で、...

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1973年(昭和48年)、同期入社した NM の結婚式の司会として鹿児島に行った。
1968年(昭和43年)に東京支店に同期入社した者は、NM、YY、SN、AY、SI、S?、MY、HY、私、の9名と、それまでのオリンピック景気採用時の1/8程度であった。 9名の内、4名が結婚式に参列することとなった。 
当初は4名でカーフェリーで行く計画だったが、台風来襲の天気予報があり、司会のおいらが到着しなくてはマズイという。 結局、おいらは夜行寝台で、他の3名が別府迄カーフェリーで行くこととした。

夜行列車には付き物の酒と、女将自慢のツマミ持参で寝台車に乗り込む。
寝台車と言えば聞こえが良いのだが、安月給の頃のこと、3段ベットの最上部が指定席であった。
既に酔っぱらって乗車した列車が動き出す頃にはベットで爆睡し、目覚めた時には呉駅を通過した頃だったろうか...暗がりに燃える工場群の焔が美しい。
やがて明るくなり寝台がたたまれた頃、山口県の某駅から子連れの女性が乗り合わせた。
聞けば、遠洋航路に乗船している旦那が、鹿児島港に停泊することになったので面会に行くのだそうだ。

寝台特急の終着駅(鹿児島中央駅か?) まで迎えに来てくれたNM の車で、自宅に向かう。
到着迄かなりな時間が掛ったが、自宅は川内(せんだい) だったようだ。
司会者到着ということで、NM の家族に大歓迎されて自宅入り。
親父さんが沸かしてくれた五右衛門風呂で寝台車の汗を流し、ズイキの煮物をツマミに飲んだビールの美味い事。
手水場は、母屋の別棟に在り、下には跳ね避けに竹の葉を敷かれていた。 秋田なら杉の葉なのだが..
翌日は無事に台風を乗り切り到着したカーフェリー組を向えて、結婚式場の下見。 
そして翌々日の本番を済ませて、またまた大宴会である。
明けて4日目は完璧な二日酔い状態でNM の家を後にし、九州観光に向かうことになった。
現在なら、酒気帯び運転で逮捕間違いない。 後日談によれば、1人当たり焼酎を1升は飲んだとの事だ。

鹿児島が実家のHYを残し、YY、SNとの3人で熊本に。 第1目的地はYYの妻実家が有る壁湯温泉
阿蘇山 ⇒ 天草 ⇒ 長崎 ⇒ 別府 を周遊し、カーフェリーにて帰郷。 
==・==・==・==・==・==・==・==・==・==・==・==・==・==・==・==・==・==・==・==・==・==・==・==・==・==・==・==・==
9名の同期入社中
  • MYは、自爆交通事故で死去。
  • S?は、入社の翌年に希望退職。退職後、広島で再就職したらしい。
  • AYは、58歳で上司と喧嘩して故郷の青森に帰郷し、連絡取れず。離婚したきり。
  • YYは、2度の結婚をし、現在は円満そう。心臓悪し。再就職?
  • HYは、年齢は1つ上だが、虚弱体質の為学年落ち。再就職?
  • SIは、連れ合いにガンで先立たれたが、再婚。悠々自適生活の模様。
  • SNは、入社後数年に希望退職し、元気そう。
  • NMは、元気そう。再就職?